倉田真由美氏に聞く 1990~2000年代のギャグ漫画事情と『だめんず』誕生までの経緯

倉田真由美に聞く『だめんず』誕生の経緯

■少女漫画からギャグ漫画へ転向

  ドラマ化もされた『だめんずうぉ~か~』などのヒット作を生み出し、コメンテーターとしても活躍する漫画家の倉田真由美氏。ギャグやエッセイ漫画で知られる倉田氏だが、もともとは少女漫画家を目指しており、大学受験の直前に編集部に持ち込みを行うほど漫画に熱中していた。

  ギャグ漫画に方針転換したのは、一橋大学卒業後のことである。自身の就職活動での失敗談をもとにしたギャグ漫画を「ヤングマガジン」の新人賞に応募。見事、デビューを果たしたものの、しばらくは鳴かず飛ばずの時代が続いた。倉田氏に当時の思い出と、ヒットに至るまでの歩みを聞いた。

■「ヤンマガ」の新人賞でデビュー

――23歳の時に「ヤングマガジン」の新人賞でデビューしたのが、倉田先生の漫画家人生の出発点だったわけですね。

くらたまの『ほしまめ女学院』が掲載された『くらたまのお蔵だし』(スマートゲート)

倉田:『ほしまめ女学院』という4コマギャグ漫画で、大賞を受賞したのです。ここから連載に繋げていくのが一般的な漫画家の流れなのですが、私は当時の編集長に気に入ってもらうことができなかったのです。アイディアを出しても出しても、まったく連載にはならない。単発の漫画を描く状態が6年くらい続きました。

――その頃の生活はどうでしたか。

倉田:このころに住んでいた、都内のアパートの家賃は5万8000円です。私は福岡県の出身で、大学進学とともに上京したのですが、5万8000円の家賃は一人暮らしにはかなりきつい金額でした。漫画だけでは生活することができないので、雀荘や塾講師などのバイトを掛け持ちしながら生活していましたね。食費を削り、贅沢品のお菓子などを買う余裕はまったくありませんでした。

――塾講師というと、時給が高いイメージがありますが。

倉田:塾講師は、確かに時給そのものはいいのですが、コマ数が取れないとそれほど旨味がないのです。家賃でバイト代がほとんど消えてしまうような状態でした。私が一番削っていたのは、衣食住の“衣”の部分ですね。ずっと同じ服を着まわしていたし、妹からお下がりをもらって凌いでいました。

■レポート漫画が注目される

――お話を伺っているだけでも、かなり生活が苦しかったことが伺えます。

倉田:でも、確かに貧乏はしんどかったけれど、仕事自体は楽しかったんですよ。当時は「BUBKA」とか、いろんな雑誌に単発の漫画を描いていました。決して原稿料は高くありませんでしたが、楽しかったから続いたんだと思います。でも、出口は見えないわけで、このまま自分はこんな生活をしていいのか悩んでいましたね。

――90年代といえば、雑誌がもっとも盛り上がっていた時代です。漫画雑誌のみならずサブカル系の雑誌など、あらゆる雑誌にギャグ漫画が載っていました。当時、やはり倉田先生はギャグ漫画を中心に描いていたのでしょうか。

倉田:あの頃、漫画家がどこかに出かけて体験取材を行う、レポート漫画も流行していました。私はそれを頼まれることが多かったんです。いろいろな現場に行けるのは面白かったですね。

――そんな倉田先生に、転機が訪れますよね。2000年から、雑誌「SPA!」で『だめんずうぉ~か~』の連載が始まります。

『だめんず・うぉ~か~ 1』(扶桑社)

倉田:編集長から、5ページあげるので連載を始めないかと連絡があったのです。私が韓国旅行をしつつ取材したレポート漫画を気に入ってくれたそうで、この人に漫画を描いてもらいたいと思ったそうです。まさに、編集長の鶴の一声で連載が決定した感じです。最高にラッキーだったと思いますよ。

■連載を勝ち取れた理由

――編集部側としても、かなりの冒険ですよね。

倉田:単発の仕事はあったとはいえ、ほとんど何の実績もない私に声をかけてくれた当時の編集長の懐の深さに感服しますよ。なにしろ、「SPA!」の5ページなんて、喉から手が出るほど欲しかった漫画家はいっぱいいるでしょうから。しかも、5ページあげるので、何でも好きなことを描いていいと言われましたからね。

――自由に描けるなんて、千載一遇の素晴らしい条件ですね。

倉田:やるなら相当面白いことを描かなきゃいけないと、プレッシャーに感じました。そこで、自分の恥の部分でもあったダメ男のネタで勝負したのです。こうして生まれたのが、『だめんずうぉ~か~』です。

――そして見事に大ヒット、10年もの長期連載になり、倉田先生の評価を確立しました。

倉田:間違いなく、編集長の決定がなかったら今の私はありませんね。そもそも、漫画家は私よりも才能がある人がたくさんいるでしょう。本当に才能があって面白い人はどんな境遇でも芽が出ると思いますが、私のように、芽が出るかどうかぎりぎりのところにいる人も多いと思います。そういう人たちにとって、運の要素はゼロではありません。

――実力だけでなく、運も重要な要素であると。

倉田:私の場合、編集長の感性が私の作風と相性が合ったおかげで、声がかかったのだと思います。編集長には本当に感謝しています。

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